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  081  天寿国曼荼羅のなかの蓮は?

 まず、天寿国とは浄土世界のことです。
 奈良・中宮寺蔵の「国宝 天寿国繍帳残闕」は、刺繍工芸品としては日本最古のものです。推古天皇30年(622)、聖徳太子が薨去しました。それを追慕し、嘆き悲しんだ妃の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)は、往生して天寿国にあそぶ太子の姿をみたいと願い、推古天皇に「図像をつくって、太子御往生の姿を偲びたい」と願いでて、許されました。そこで、椋部秦久麻(くまべのはたのくま)を監督にして、たくさんの絵師達に絵筆をとらせ、多くの采女(うねめ)たちを動員して、一丈六尺の繍帳2つを薄い絹に刺繍させたのです。それがこの「天寿国曼荼羅」です(写真・左)。
 もとは2帳であったのですが破損、紛失などで傷んでしまい、鎌倉時代に補修されて、縦89p、横83pの一枚に縫い合わされて
います。その図様はじつに多彩です。仏像・神将・僧侶・庶民などが描かれいるほか、鳳凰・兎・飛雲・唐草・蓮文様などがあります。蓮図は現在、かなり黒く見えますが、本来は青糸で刺繍された青蓮花のはずです。ここでの蓮は、死後、極楽世界に往生することを願った人が、蓮の花の中に生を受けるという蓮華化生を表しています(K)。 

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  082  「お練」のなかの蓮は?

 「お練」すなわち二十五菩薩来迎会(らいごうえ)は、注目すべき仏教イベントです。その理由は、蓮と深く関わっているからです。
 奈良の当麻寺(たいまでら)と中将姫のことは『蓮文化だより』11号を、彼女が織りあげたとされる「曼荼羅図」については Q&Aの040を、それぞれご覧ください。
 姫が藕絲(ぐうし。蓮の糸)で曼荼羅を織るという話は、たとえ文学的な潤色があるとしても、いい物語です。彼女を西の浄土へ導いてくれたのは菩薩たちだそうです。この浄土思想は、『往生要集
』を著わした源信(恵心、1017年没)の影響もあり、日本の各地に伝わりました。
今日につたわる「お練」は、宗派(浄土宗)の枠を超えており、それぞれの土地の特徴を備えています。ただ、姫(ないしそこの主人公)が坐るのは蓮台であり、蓮の花を手にした菩薩がいることは、ほぼ共通しています。 写真は大念仏寺(大阪)の「お練」で、金蓮の花籠をもつ(妙音)菩薩です(G)。

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  083
  
隠岐島に蓮花舞があるそうですが?

 あります。正しくは「隠岐国分寺蓮華会舞」です。島根県の隠岐島(おきのしま)の国分寺に、平安時代から継承され、国の重要無形民俗文化財指定です。現在は4月21日、国分寺跡で行われています 。
 隠岐国分寺は聖武期(724〜749)に建立されましたが、明治の廃仏毀釈やたびたび火災にあいました。最近では平成19年、本堂や仏像、舞に使用する仮面もすべて焼失しました。それでも不死鳥のように蘇えり、蓮華会舞だけは継承されています。 
 この舞の起源はインドやシルクロードの流れをくむ伎楽で、無言の仮面劇です。江戸の記録によると、5年毎に旧暦6月30日(蓮華の日)を中心に奉納されたようです。ちょうど蓮の花の季節です。
ここには「レンゲ田」などの地名もあり、レンゲ弁当を作り、村民あげて五穀豊穣を祈り、楽しんだようです。 
本堂前に、広さ4,5メートル四方、高さ1,2メートルの仮設舞台を
設け、そこで披露します。舞の始まる前に、僧侶、世話役、演舞者が舞台下を三周します。これを行道(ぎょうどう)といいます。
舞の演目は、昔は120種ほどあったそうですが、今は「太平楽」「麦焼き舞」など7種のみ伝わっています。いずれも雅楽や狂言に見られる舞や農作業をコミカルに演じた独特の舞です。昔は、蓮の花が主役で、蓮の舞も奉納されたと思われます。現在の「仏舞」が往時を偲ばせます(I) 

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蓮を詠んだ中国最古の詩集?

それは『詩経』です。いまから約2500年前、周代から春秋まで、中国の各地につたわる詩を1冊に集めたものです。それを編さんしたとされる孔子は、「詩三百、思い邪(よこしま)なし」と総評しています。
実際の『詩経』には、全部で305篇の詩があります。それらの詩風は、確かに素朴で、力強く、虚偽や無用な潤色がないのです。
 山に扶蘇(ふそ)あり、湿に荷華あり(鄭風)―― 山には扶蘇(草の名)があり、湿地には蓮の花が咲 く(鄭の国の詩)かの沢の陂に蒲と荷あり(陳風)
 ―― あの沢の陂(そば)には、ガマと蓮とが生えている (陳の国の詩)などがその好例です。いずれも実際の風景を詠んでいるようですが、後世の注釈では、想う男に会えない女の気持ち、とし
ています。編者(孔子)の考えを聞きたいものです。 また、忘れてならないのは、屈原(くつげん。BC280?没)の『離騒』(りそう)です。戦国時代、楚の憂国(愛国)詩人だった彼は、「?荷(きか。蓮のこと)で衣を制(つく)り、芙蓉(ふよう。蓮の花)を裳(きもの)となす」と、『離騒』のなかに詠んでいるからです。
写真・左は『詩経』の「採薬」を絵にしたもので、宋・馬和知の作品です(G)。

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  蓮を詠んだ日本最古の歌集?

 それは『万葉集』であり、4首の蓮の和歌が詠まれています(数字は、番号)。3289 み佩(は)かしを 剣(つるぎ)の池の 蓮(はち)葉(すば)に 溜まれる水の 行くへなみ我(あ)がする時に逢ふべしと 逢ひたる君を な寝(い)ねそと 母聞こせども 我(あ)が心 清(きよ)隅(すみ)の池の池の底 我(あれ)は忘れじ 直(ただ)に逢ふまでに(作者未詳)
 蓮の葉に溜まる水を譬えとして用いて、よるべなき恋の思いが歌われています。『日本書紀』には、635年7月に1茎2花の瑞蓮が「剣池」で咲いたと記録されています。
 3826 蓮(はち)葉(すば)はかくこそあるもの意(お)吉(き)麻呂(まろ)が家なるものは芋(うも)の葉にあらし(意吉麻呂)
 芋はサトイモのこと。作者(長(ながの)忌寸(いみき)意(お)吉(き)麻呂(まろ))は目の前にある立派な蓮の葉を見て、自分の家の蓮の葉はサトイモのようなものだと卑下して戯れた歌です。
 3835 勝間田(かつまた)の池は我(われ)知る蓮(はちす)なし然(しか)言ふ君がひげなきごとし(作者未詳)
 「勝間田の池」の所在地は不明。左注によれば、新田部(にひた
べの)親王(みこ)が「勝間田の池」(写真・上)に咲いている蓮の花に感動して、その思いをある婦人に語ったところ、その婦人の詠んだ歌と説明されています。「勝間田の池」には蓮はありませんよ、親王の顔に鬚がないようなものですという意。「勝間田の池」には蓮が咲いており、親王の顔に立派な鬚があることを知っていて、戯れに詠んだ歌といいます。 3837 ひさかたの雨も降らぬか蓮(はち)葉(すば)に溜まれる水の玉に似る見む(作者未詳)これも左注によれば、役所で酒宴が催されて料理が蓮の葉に盛られていたといい、同席していた右兵衛(うひゃうゑ。武官)で、和歌に優れていたものが、他の人に勧められて詠んだ歌なのです。蓮の葉に溜まる水を玉と見立てたところが趣向です(D)。

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  インドの神話にみる蓮は?

 たくさんありますが、宇宙の創造にまつわる神話を、2つだけ紹介します。
 「原初に存在したのは水のみであり、その水の中から蓮の葉が浮かびあがり、黄金色の千の花弁をもつ蓮の花が開いた」(『タイッティリーヤ・アラニヤーカ』より)。
 「水に浮かんでいるヴィシュヌ神の臍(へそ)から蓮が生え、その花からブラフマー神が生まれた」(『マハーバーラタ』より。図版)。
 ヴィシュヌ神の別名は「ナーラーヤナ」で、そのナ(ー)ラとは、宇宙の原初の水のこと。ヴィシュヌの臍よりでた蓮からは、カイラスなどの聖山が生まれます。ブラフマーは創造の神であり、その心にマナサロワールなどの聖湖をつくり、そこから河が流れでます。
 また、ラクシュミー神はヴィシュヌの妃であり、その別名に「パドマ・サンバヴァ」(蓮から生まれた者)、「パドマスティター」(蓮のう
えに立つ者)などがあります。
 蓮は、古代インド人にとって、太陽や星の象徴であり、天と地と結ぶ存在であると同時に、生産(殖)・豊饒・美のシンボルだったのです。
 いまのインドでは、ハスもスイレンもみな「パドマ」であり、おもに色の違いでその名が異なるようです。友人の名前は、なんと兄がパンカジ(赤い蓮)、弟がニーラジ(青い蓮)です(S)。

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  中国の蓮の文人といえば?

 古今東西の蓮の「詞・詩・和歌・俳句」で、最初に思い出す「うた」と聞かれて、答えるのは誰の「うた」でしょうか。管見ですが蓮に興味を持つ人なら、周茂叔の「愛蓮説」ではないでしょうか。
日本ではシューマンの「蓮の花」が有名ですがこちらは睡蓮のようです。和歌、俳句、詩にも蓮の花を詠んだ秀句はたくさんありますが、すぐに思い出せる人は、よほどの愛蓮家です。
 愛蓮説の作者、周敦頤(1017〜1073)字は茂叔、号は濂渓。北宋の哲学者です。わずか119字の「愛蓮説」は、簡潔な文と比喩が巧みなことで知られ、蓮の文学史で最も親しまれている詩文ではないでしょうか。特に、「淤泥より出て染まらず」は、蓮の花を表現するときにたびたび引用されて来ました。また、「花中の君子」の表現ですが、蓮の花をこれ以上の褒め讃えた言葉はあるでしょうか。
 「愛蓮説」は、宋の黄堅が、中国の戦国時代から宋までの詩文を集めた『古文真宝後集』(前集は詩文を後集は文章を集めたもの)に収められ、元・明時代に広く流布しました。わが国に室町初期に伝来すると、僧侶達の必読書となりました。江戸時代には、漢文学者だけでなく、中国詩文を学ぶ人達に広く普及し愛唱されました。また、画家、書家の画題になり描かれています。 図版は、国宝「周茂叔 愛蓮図」(狩野正信、東京国立博物館蔵)(Z)。

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  日本にも蓮の文人がいた?

 いました。意外かも知れませんが、水戸黄門すなわち徳川光圀(義公、1628〜1700)を推薦します。 講談やテレビでお馴染みの黄門さまが、諸国を漫遊して悪人を懲らしめるというのは史実ではありませんが、彼は実在の人物です。
 光圀公はその政治的手腕だけではなく、文人としても面目躍如たるものがあり、実にたくさんの文章、和歌や漢詩を残しています(右は、その全集)。多くの題材を詠んでいますが、それらの中には「蓮」を題材にした作品もあります。和歌は3首のみですが、漢詩は20首以上にわたっています。各1首のみ紹介します。
 白玉をはすのひろ葉にゆりすへてひちりにそまぬ月そやとれる(『常山詠草』204)―大きな蓮の葉にたまった玉のような露、清澄な月影を映した美しい情趣を醸し出しているという趣向です。
 芙蓉今示瑞 分?共同莖 大小色爭美 夷齊香益清
 紅衣浮水潔 禄蓋受風軽 池浸蓮不影 雙雙花弟兄 (『常山分集』137)
―水をたたえた池の面に蓮の葉が翻り、1茎2花の対をなした紅の蓮の花が咲き競っているという趣向です。
 蓮の清々しい美しさを、伯夷叔齊(斉)の兄弟の故事にたとえています。詩中の「芙蓉」は蓮の花の意。題詞によれば、「唐蓮」が始めて「雙(=双)頭」の花を咲かせたとあります。このような花はめでたいことのしるし(=瑞兆)として扱われています。
 光圀公には、後楽園の池(水戸藩の上屋敷内)に咲いた双頭蓮を詠んだ漢詩(『常山文集』622)もありますが、その詩の中では「瑞蓮」と表現しています(D)。 

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  インドの古詩にみる蓮は?

 きわめて興味ぶかいです。例えば、『古代インドの神』(オドン・ヴァレ著)に「蛇の上で休むヴィシュヌ神と、ヴィシュヌ神の臍から生えている蓮の上に立つ創造神ブラフマー」という、絵が載っています(写真・次頁。細密画、16世紀)。
 それとそっくりの情景が、松山俊太郎著『インドのエロス』のなかの詩にあります。「…/臍の蓮花に坐るブラフマーをみとめたラクシュミーは/欲情の漲るゆえに/ハリの右目を たちまち 蔽っ
てしまう」という部分です。
 その詩の解説には、「ラクシュミーは吉祥天、繁栄と美の神さまであり、もとは大地母神で、蓮花(れんげ)の神さまでもあります。インド人は、大地そのものが蓮花と考えています」とあります。
 インドの古詩には、ハーラー編『サッタサイー』や、詩聖カーリダーサの作品など多数あり、そのなかの多くに、蓮が描かれてい
ます。その描写は、「両腕は蓮の茎顔は蓮花」「蓮花のような切れ長の目」「蓮花のような手で」「青すいれんできみの目を、蓮花で顔を…創造主はつくってくださった」などと、女性の美しさを讃えています。また「手に弄ぶ蓮花で打たれた色男」なんていうのもあります。ちなみに『上田敏全訳詩集』に印度古詩6篇があり、そのなかに「きみがまなこは青蓮に(バルトリハリ作)」があります(O)。

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  090
  蓮を記した最古の日記は?
 
それは、妙連日記(蓮花立覚留日記)です。
滋賀県守山市の大日池に「近江妙連」と呼ばれる、ちょっと変わった種類の蓮があります。蕾は普通の蓮花と同じように見えますが、開くと雄蕊も雌蕊もない花弁だけの花で、花弁の総数は2000枚から7000枚にも達します。
 近江国(滋賀県)野洲郡田中村の田中家に、室町時代から代々伝わってきた「蓮」です。田中家に伝わる『江源日記』には、1406年、足利義満にも献上された記録があります。その後も皇室、将軍家などに献上されています。田中家の妙蓮の「いわれがき」には、三国伝来とあり、インド・中国→日本へと伝わったと思われますが、確かなことは分りません。
 現在、中国の湖北省当陽県の玉泉寺に「千弁蓮」と呼ばれている、妙蓮と同じ形態の蓮が伝わっていますが、こちらも来歴が不明です。日本でこの蓮を「妙蓮」と呼ぶようになったのは、大正以降です。
 この妙蓮について、田中家には、明暦3年(1657)から文化12年(1815)まで、159年間(途中抜けている年もあり)、その年に咲いた花の数、気候、作物の出来不出来などが記された貴重な資料である、「妙蓮日記」4册と「蓮花覚帳」1册(『蓮花立留日記一、二』『蓮立花覚日記』『蓮之立花覚』『蓮立花覚日記』『永々蓮立花覚帳』)が伝わっています。
 日記の宝永3年(1706)には、「此年蓮花二三五本立、作物三十年此方大豊作、悦申候、七俵当」とあり、この年は妙蓮が235本も咲き、米も豊作だったようです。
 皇室にたびたび献上されていますが、享保18年(1733)に献上した時の様子を、田中家十七代当主綱義が夜通しで京都に運んで献上したことが、「禁裏様、蓮花差上覚奉」に詳細に記されています。
明治中期になって大日池に「妙連」が咲かなくなりました。大日池から分根されて金沢市の持明院で栽培されていた妙蓮を大日池に復活させたのは、大賀一郎博士で、昭和35年に移植され、38年に開花しました(K)。